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 トップページ > 郷土風土記 > 『越後国瀬波郡絵図』を見る慶長2年(1597年)の村上市・岩船郡の姿
郷土風土記
『越後国瀬波郡絵図』を見る
慶長2年(1597年)の村上市・岩船郡の姿
村上神納小学校

1 『越後国瀬波郡絵図』とは
 瀬波郡とは、現在の村上市岩船郡を指し、中世まで使用された郡名である。
 この『越後国瀬波郡絵図』は、山形県米沢市の上杉家に伝わる2枚の絵図の内の1つである。この絵図の大きさは文献によって異なるが、縦が約2.3メートル、横が約6.8メートルの大きな絵図である。残るもう1つは『越後国頚城郡絵図』である。
 この絵図が、長年日本中の研究者から熱い眼差しを受けてきたことにはもちろん理由がある。その描かれている内容である。山野、河川、潟海、島といった白然地形や、田畑、家屋、集落(村)、城館、道路、橋などの人工物が図像として描かれ、さらに村や町ごとに、名称、知行人、家数、石高などが記されている。
 天正19年(1591年)に豊臣秀吉が大名たちに領国の検地と郡絵図の提出を命じたとされ、この2枚の絵図もそれだと考えられている。そして、日本にはこの2枚しか残っていないのである。
 さて、私の勤務する神納小学校の学区は10集落から成るが、この10集落が1つの落ちもなく、この絵図にしっかりと描かれている。集落(村)名も現在と変わりない。
 このことは、400年も前から(おそらくはもっと昔から)この地に住む人々の営みが、連綿と続いてきたことをうかがい知ることができるのである。

2 絵図作成者は現地に来たか
 膨大な情報を秘めたこの『越後国瀬波郡絵図』については、多くの研究者による多くの考察がある。
 特に旧山北町の縮尺を変え、絵図の真ん中に村上町を描き、そして「村上ようがい」を立派に描いたこの絵図の作成意図を指摘する論者も多い。また、文字情報から、国主である上杉家の支配力や、村々の石高から当時の人々の生業まで考察されている。
越後国瀬波郡絵図 さて、私の長年の疑問は、そんな専門的で難しいことではなく、郡絵図作成という大プロジェクトのチームスタッフは、実際に現地を歩いて見聞したかどうかという単純なことである。この疑問の理由も単純である。
 私の住む「桃川(村)」は、現在は「百川」という川の右岸にある。しかしこの絵図には、川の両岸に民家が密集して描かれているのである。
 現在も川の両岸に民家が密集する他の集落(村)は、絵図にもそのとおり正確に描かれている。400年前には桃川(村)は川の左岸まで広がっていたと推測することは簡単である。
 しかし、現在の地形を見る限りその可能性は極めて低いのである。
越後国瀬波郡絵図 そこで、郷土史の講演会で質問したことがある。その時の講師の新潟大学の教授は「来ている。」と答えた。
 別な講演会では、講師の米沢市上杉博物館の学芸員は「分からない。が、来たとしても、郡内をくまなく歩いたとは考えにくい。」と答えた。
 私は後者に説得力を感じる。

3 児童生徒にも歴史的想像力を
 この絵図が作成された慶長2年は、豊臣秀吉が62歳、上杉景勝が43歳、そして直江兼続は38歳であり同じ空気を吸っていた。この絵図を見ながら、児童生徒と共にその時代の空気を吸ってみたいものである。

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